pray

2004年3月26日
葬式の日も…覚えてはいない…
ただ真っ白…何も考えられないし、考えたくない。

ただ唯一、頭が働いたことがあった。
多くの生花も届き、多くの花輪、電報も届いた。ただそこには何か足りないものがあった。無くても良いのかもしれないが、自分自身の気持ちとして…。葬儀屋さんに頼んで「孫一同」で果物をお願いすること。唯一、自分が考えたことだった。
私は祖父ちゃんにとっての初孫である。祖父ちゃんには2人の娘はいたが、男の子はいなかった。それで最初の孫が私だった時にはもの凄く喜んでいたんだと聞いたことが何度もあった。そして祖父ちゃんの入院中、お見舞いに来る日と来る人、私が鹿大生だということを知っていて…祖父ちゃんが嬉しそうに語って聞かせてくれたんだと話してくれていた。
自慢の孫…なのかは分からないけれど、そう思っていてくれたのなら…

告別式の前にはお別れ膳というものがあり、近所の人たちが公民館でその支度をしていた。これもまた田舎のよき伝統なのだろうか。正直、どんな料理も喉を通らないのだけれど…こうして準備をしてくださった方には感謝。

式は静かに確実に進んでいった。最後に棺に花を捧げる…涙、いやもう泣いて泣いて…覚悟していたことなのに…やっぱり覚悟なんて出来ないものだなぁ…
祖父ちゃんに触れたけれど…とっても冷たかった…あぁ、やっぱり生きてはいないんだな…そんな当たり前のことを確認していた。
木戸が長いために手伝いの人が担いでくれる。その前に4人で棺を担いだ。それはビックリするくらい軽かった。本当に痩せこけてしまって…あんなにガッチリした体格だった祖父ちゃんだったのに。そう思ってはまた泣いてしまった。

火葬場でも最後の最後まで泣いて…。もう1年分の涙を使い果たしてしまうくらい泣いたかもしれない。
小さな火葬場に虚しく機械音が響く…
1時間半後には収骨。2年半前もそうだったように、呆然として涙も出ない…不思議な感覚でしかなかった。

この1年を振り返ると本当に色々なことがあった…
2003年2月に祖父ちゃんが入院。黄疸が強く、市民病院へ転院。手術しても余命は1日かもしれないし、2日かも、1ヶ月…生命力次第とも言われたのもこの頃だった。10時間以上にも及ぶ大手術を受け…5月には退院。それからは耕運機を動かせるくらい元気になって…誰もがこのまま元気になると信じていた。しかし、それは違っていた。本当は退院した時点で手遅れだったらしい…
12月には再び入院。それから4ヶ月弱…
2004年3月25日 午前10時01分逝去 享年73歳
奇しくも祖母ちゃんがなくなったのも10月25日…複雑だ…

12月に入院した時も年を越せるか分からないと言われたっけ…もう何も食べられないとも言われたなぁ…それでも医者の言うことを次々と覆してくれて…危篤になった時も吐血をした時にももうダメかもって思ったけれど…本当に頑張って…頑張って…頑張って…頑張りすぎて…今までよく生きていてくれたね、ありがとう。

祖父ちゃんは亡くなる直前までしっかりしていて、話をすることも出来ていました。最後に会ったのは日曜日。その時の別れ際、弟と父が先に帰る時には、「頑張れよ」って言って涙を浮かべていたそうです。そして遅れて私と母が帰る時にも握手をして…涙を浮かべていて…会うのはこれで最後だと感じていたのかな…
亡くなる数時間前にも、母の名前と私の名前を何度も呼んでいたと聞きました。それを聞いて「会いたいの?」と聞くと「うんにゃ、よか」と答えて、その数時間後…。それを聞いて…大事に思っていてくれたんだな、愛していてくれたんだなという思いと…その時に駆けつけることができたならば、間に合ったのではないかという悔しい思いと…
やっぱり後悔が残っちゃったなぁ…
でもなんで最後の最後に2人の名前を呼んだんだろうなぁ…きっと会いたかったんだよね、きっと最後に会いたかったんだよね…ごめんね…

色々と思い出すと泣けてきますね。また祖父ちゃんの話は落ち着いてから書くことにします。

それとこれをみてくだされば良いのですが…
サイトのほうは完全に放置状態です…色々と整理がついたら更新もカキコもしますので、お許しください。
なんでもランキングがバグを起こしたみたいで…あとで覚えている方は申告していただいて修正したいと思います。
メールも山のようにたまっています(^^;
こちらも追々返信していきますのでお許しください。
私自身は元気にしておりますので大丈夫です。もうすぐ落ち着くと思います。

それでは。

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